パウラ・モーダーゾーン=ベッカー 生誕 142周年

Google日本語版トップページに 2018年2月8日(木)、パウラ・モーダーゾーン=ベッカー(Paula Modersohn-Becker)の生誕 142周年にちなんだロゴ画像が表示されました。
ロゴ画像をクリックすると、キーワード「パウラ・モーダーゾーン=ベッカー」の検索結果が表示されます。

パウラ・モーダーゾーン=ベッカー( 1876年2月8日 – 1907年11月21日 )はドイツの画家で、初期の表現主義を代表する人物の一人。
今回のロゴ画像には、パウラの作品も描かれています。

パウラは、1898年からウォルプスウェーデーゾーンの芸術村に住み、1901年5月25日に画家のオットー・モーダーゾーンと結婚し、夫の長女エルスッベットの継母となりました。
夫婦仲は円満とはいえず、結婚後、パウラはパリへ数度の長い旅行を行い、その間は家族と離れて暮らしました。
夫との仲が改善し、1907年2月に娘マチルデが産まれますが、まもなくパウラは塞栓症にかかり、1907年11月21日に 31歳で亡くなりました。

「マルテの手記」で知られるオーストリアの詩人ライナー・マリア・リルケの 1908年の作品「友へのレクイエム」という作品は、パウラの死を悼んで書いた詩だそうです。

パウラ・モーダーゾーン=ベッカーの死の 20年後の 1927年、ブレーメンで「パウラ・モーダーゾーン=ベッカー美術館」が開館しました。この美術館は、パウラの芸術上の支援者だったブレーメンの富豪ルートヴィッヒ・ロゼリウスが建設させたものだそうです。

テレサ・テン 生誕 65周年

Google日本語版トップページに 2018年1月29日(月)、テレサ・テンの生誕 65周年にちなんだロゴ画像が表示されました。
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テレサ・テン( 1953年1月29日 – 1995年5月8日 )は台湾出身の歌手で、中華圏での名前は鄧麗君〈デン・リージュン〉。
1970年代から 1990年代にかけて、アジアで人気があり、1986年には米タイム誌によって世界7大女性歌手の1人に選ばれています。

テレサ・テンは、10歳の時、ラジオ局主催の歌唱コンテストで優勝。
1967年、14歳でプロの歌手としてデビューし、16歳のときに主演映画で女優デビュー。
18歳のときにはアジアのトップスターの一人となりました。

1974年、21歳のときに日本でデビューし、2曲目の「空港」が大ヒットし、日本でもスターになりました。
その後、香港を拠点としてアジア各地で活躍。
1979年、台湾のパスポートではなくインドネシアのパスポートで来日しようとして、旅券法違反で国外退去処分を受けました。
1984年に再来日が許可され、日本再デビュー曲の「つぐない」が大ヒット。
1984年から 1986年にかけ、「日本有線大賞」と「全日本有線放送大賞」で史上初の 3年連続大賞・グランプリを受賞しました。

1990年頃から次第に体調を崩し、1995年5月8日、気管支喘息による発作のため、42歳で死去。
5月28日に台北で国葬が行われました。

テレサ・テンの歌う姿は、現在でも YouTube で見ることができます。
テレサ・テンの日本語の歌も良いですが、中国語の歌も魅力的です。

ワイルダー・ペンフィールド 生誕 127周年

Google日本語版トップページに 2018年1月26日(金)、ワイルダー・ペンフィールド( Wilder Graves Penfield )の生誕 127周年にちなんだロゴ画像が表示されました。
ロゴ画像には再生ボタンが描かれていて、画像をクリックするとショートアニメが繰り返し再生されます。
画像を再度クリックすると、キーワード「ワイルダー ペンフィールド」の検索結果が表示されます。

ワイルダー・ペンフィールド( 1891年1月25日または26日 – 1976年4月5日 )は、アメリカ生まれのカナダの脳神経外科医。

ペンフィールドは 1933年、てんかんの治療のために行われる開頭手術の際、脳を電極で刺激すると鮮明な記憶がよみがえることを発見しました。
今回のロゴ画像及びショートアニメは、ペンフィールドが発見したこの現象を描いています。

なお、カナダ郵政公社が 1991年に、ワイルダー・ペンフィールドの功績をたたえて郵便切手を発行しています。

ワイルダー・ペンフィールドは、私生活では 1917年に結婚。
後に孫の Jefferson Lewis がワイルダー・ペンフィールドの伝記「Something Hidden」を書いたとのことですので、 ペンフィールドには子供がいたはずです。

ヴァージニア・ウルフ 生誕 136周年

Google日本語版トップページに 2018年1月25日(木)、ヴァージニア・ウルフ( Virginia Woolf )の生誕 136周年にちなんだロゴ画像が表示されました。
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ヴァージニア・ウルフ( 1882年1月25日 – 1941年3月28日 )は、イギリスの作家。
「ダロウェイ夫人」(Mrs Dalloway)、「灯台へ」(To the Lighthouse)、「オーランドー」(Orlando)等の小説で知られていますが、戯曲、評論、ノンフィクション、自伝的作品もあります。

ウルフは、ブロンテ一家の故郷ハワースについての記事が 1900年に「タイムズ文芸付録」に掲載され、1915年には処女作「船出」が出版されました。
ウルフの作品は、批評家及び一般から高く評価され、ウルフは一生を通して、ほとんど中断することなく作家として書き続けました。

ウルフは私生活では、1912年に作家のレナード・ウルフと結婚。
二人は 1917年に出版社ホガース・プレスを共同で創業し、ともに働きました。

ウルフは十代で神経衰弱を発病し、生涯を通じて、周期的な気分の変化や神経症状に悩まされ、晩年には仕事ができないほど躁うつ病状態が深刻化、自宅近くのウーズ川で入水自殺しました。

ただ、自殺前に書斎に残されていた夫への書置きの文章を見た限りでは、ウルフは夫レナードを愛していて、幸せな結婚生活だったようです。

セルゲイ・エイゼンシュテイン 生誕 120周年

Google日本語版トップページに 2018年1月22日(月)、セルゲイ・エイゼンシュテインの生誕 120周年にちなんだロゴ画像が表示されました。
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セルゲイ・エイゼンシュテインは、ソビエト連邦の映画監督で、1898年1月10日(グレゴリオ暦 1月23日)にロシア帝国領のリガに生まれ、1948年2月11日にモスクワで死去した人。
代表作は 1925年のサイレント映画「戦艦ポチョムキン」で、未完に終わった3部作「イワン雷帝」(第1部:1944年、第2部:1946年)でも知られています。

エイゼンシュテインは、一時期、日本語を習っていたことがあり、複数の漢字を組み合わせて別の意味を持つ漢字になるというコンセプトを基にモンタージュ理論を開発したのだそうです。

私はセルゲイ・エイゼンシュテイン監督作品を鑑賞したことはなく、今のところ興味は薄いですが、そのうちに見たい気持ちになる日がくるかもしれません。

ケティ・フラド 生誕 94周年

Google日本語版トップページに 2018年1月16日(火)、ケティ・フラド( Katy Jurado )の生誕 94周年にちなんだロゴ画像が表示されました。
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ケティ・フラド( 1924年1月16日 – 2002年7月5日 )は、メキシコの女優で、ハリウッドとメキシコの両方で活躍した人。

フラドは、16歳のときにメキシコでデビューし、1951年からハリウッド映画にも出演。
1952年の「真昼の決闘」(High Noon)で酒場の女主人役を演じ、ゴールデングローブ賞の助演女優賞を受賞。
1954年の「折れた槍」(Broken Lance)で、第27回アカデミー賞の助演女優賞にノミネートされましたが、受賞は逃しました。

ケティ・フラドが出演した作品では、私は以前、「真昼の決闘」をテレビ放映時に何度か見たことがあります。
ただ、主演のゲイリー・クーパーの登場した場面はいくつか覚えていますが、ケティ・フラドの登場した場面についての記憶はありません。

フラドは、私生活では、メキシコの俳優と結婚して子供 2人(男1、女1)をもうけますが、離婚。
1959年に俳優アーネスト・ボーグナイン(1917年1月24日 – 2012年7月8日)と結婚し、1963年に離婚しています。

周有光 生誕 112周年

Google日本語版トップページに 2018年1月13日(土)、周有光の生誕 112周年にちなんだロゴ画像が表示されました。

ロゴ画像には再生ボタンが描かれていて、画像をクリックするとショートアニメが繰り返し再生されます。
そこで画像を再度クリックすると、キーワード「周有光」の検索結果が表示されます。

周有光( 1906年1月13日 – 2017年1月14日 )は、中国の経済学者、言語学者。

周有光は、1933年に日本に留学して経済学を学び、1935年に帰国後、光華大学で経済学を教えました。
日中戦争中は奥地に逃れ、戦後は欧米諸国や香港に滞在。

1949年に中華人民共和国が成立後、上海に戻って復旦大学と上海財経学院の経済学の教授となりますが、文字改革に関する著作が評価され、1954年に文字改革委員会に招かれます。
翌年、大学を辞めて北京に引っ越し、以降、文字改革の仕事に専念します。

1958年に中国が制定した漢語拼音方案の策定とその普及にかかわりました。
また、1979年にワルシャワで行われた国際標準化機構の会議上で拼音(ピンイン)を国際標準にすることを提案し、その結果1982年に ISO 7098 として標準化されました。

文字改革委員会(1985年に国家語言文字工作委員会と改名)の委員を 1989年に退職した後も言論活動を続け、100歳になってからも盛んに著作を発表しました。

なお、今回の Googleロゴのショートアニメは、周有光がピンインの策定に関わったことにちなんだ内容のものです。

アラン・ペイトン 生誕 115周年

Google日本語版トップページに 2018年1月11日(木)、アラン・ペイトン( Alan Paton )の生誕 115周年にちなんだロゴ画像が表示されました。
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アラン・ペイトン( 1903年1月11日 – 1988年4月12日 )は、南アフリカの作家で、反アパルトヘイトの活動家。
ペイトンは、南アフリカのイギリス人居住区で生まれ、大学卒業後に教師となりました。
1928年に結婚し、子供 2人(男2)をもうけています。

ペイトンは、1935年頃に若い黒人の矯正施設(少年院)の院長となり、約13年間の間に、進歩的な改革を行いました。
閉鎖的だった院内をオープンにし、真面目な者は院外でも働けるようにしたそうです。

その後、作家となり、1950年代以降に数多くの本が出版され、代表作の「Cry、The Beloved Country」は映画化されています。

1967年に妻と死別しますが、1969年に再婚し、その結婚はペイトンが亡くなるまで続きました。

なお、ペイトンの著作では、「Cry、The Beloved Country」が「叫べ、愛する国よ」の邦題で 1962年に出版され、1986年に「憎しみあるところに愛を」という邦題の本も出ていますが、どちらも現在では絶版のようです。

ハー・ゴビンド・コラナ 生誕 96周年

Google日本語版トップページに 2018年1月9日(火)、ハー・ゴビンド・コラナ( Har Gobind Khorana )の生誕 96周年にちなんだロゴ画像が表示されました。
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ハー・ゴビンド・コラナ( 1922年1月9日 – 2011年11月9日 )は、インドのパンジャブ地方出身の分子生物学者で、1966年に米国に帰化した人。
遺伝暗号の翻訳とタンパク質合成の研究で、ロバート・W・ホリー、マーシャル・ニーレンバーグとともに 1968年度のノーベル生理学・医学賞を受賞し、同年、マーシャル・ニーレンバーグと共にコロンビア大学よりルイザ・グロス・ホロウィッツ賞を受賞しています。
また、世界で最初にオリゴヌクレオチドを合成した人物で、最初に DNAリガーゼを単離した人物でもあります

コラナは、出身地の大学で 1945年に修士号を取得し、同年にイギリスのリバプール大学に移り、1948年に博士号を取得。
博士号取得後、出身地で教育職か研究職に就きたい気持ちはあったようですが、職を得られずにリバプールに戻った言われています。
なお、コラナの出身地は現在、パキスタン領になっています。

私生活では、1952年にスイス出身の女性と結婚し、子供は 3人(男1、女2)。
コラナが私生活で幸福だったかどうかは分かりませんが、学者としては間違いなく成功者といえます。

元旦 2018

Google日本語版トップページに 2018年1月1日(月)、元旦(がんたん)にちなんだロゴ画像が表示されました。
今回のロゴ画像は、2017年12月18日と同年12月25日、及び同年12月31日に表示されたロゴ画像の続きで、シリーズの最後のものです。
ロゴ画像をクリックすると、スライドショー形式で 6個の画像が表示されます。
そこで虫眼鏡アイコンをクリックすると、キーワード「元旦 2018」の検索結果が表示されます。

元旦は、一年の最初の日。
大みそかの伝統的な風習として、「年越しそば」や「除夜の鐘」があり、テレビでは「NHK紅白歌合戦」などの特番が放送されます。

今年(2017年)の大晦日、我が家では例年同様、朝食で雑煮を食べました。

午前中のうちに年賀状が届き、こちらが想定していなかった相手からのハガキが何通かあり、昼食の後で年賀状の返事を書きました。

この日、私は年賀状の返事を書いた以外、特に作業らしいことは行わず、基本的に居間の PC で遊んでました。

元プログラマーの仕事ブログ